加古川心筋梗塞訴訟(加古川市民病院事件)記録閲覧後コメント

(判決の問題点解説はこちら,判決文はこちら,記録閲覧メモはこちら)

 この事件の判決後に,インターネット上で医療関係者と考えられる匿名者が,裁判の中では担当医本人すら主張していない,「担当医は、70分間の間に5つの周辺病院に転送要請を行ったが次々に断られた。」などの"怪情報"を,さも公然の秘密であるかのような前提として,判決を批判していることに対して,兵庫医療問題研究会から声明が出されました。

 そのような事情に鑑み,一度はこの事件の裁判記録を確認してみようと思い,先日神戸地方裁判所で裁判記録を閲覧してきました(参考: 裁判記録閲覧の方法)。その結果,確かに兵庫医療問題研究会の主張の通り,一部の医療関係者がインターネット上で,誤った事実に基づいた持論展開をしていることは間違いないと考えられました。

 例えば,被告病院側の第一回目の主張である「答弁書」には,次の一節があります。(赤字は筆者強調。以下同様。)

2. まず,高砂市民病院に受け入れ要請を行っても受け入れ受諾の回答があるとは限らず,更に転送先を探さなければならない可能性もあった。休日であったにも関わらず,最初に要請した病院から受け入れ了承の回答があったことは誠に幸いであった。

 また,担当医の陳述書に「休日深夜は受入を断られ易いので,できる検査は実施してから頼みたいと考え,採血結果を待った。機械の不調もあり結果が遅れた。」との旨が記されていることを見ても,心電図確認後,直ちに転送を要請したような事実があったとは考えられません。そうなると,確かに医療関係者ブログ上に誤った情報に基づく意見が多数並べられたと考えられ,それに対して患者側に立つ人々が怒りをあらわにすることはもっともであると考えます。この点について,原典に当たらず誤った情報に基づいて判決批判をした医療関係者は,十分に反省しなければならないと思います。

 ここで「担当医は、70分間の間に5つの周辺病院に転送要請を行ったが次々に断られた。」といった誤った情報が出てきたことに対して,私なりの頼りない推察を加えておきます。誤った情報の生成には,この事件の当日未明にあった転送要請拒否症例の存在が強く影響していたものと思われます。判決文で,

3 被告病院の前夜の当直医は,平成15年3月30日1時30分に来院した患者を心筋梗塞であると疑い,神鋼加古川病院に転送要請したが,神鋼加古川病院は,知らされた症状や所見からは,その患者が心筋梗塞であるとは認めず,受入れを断った。

とあるように,前夜の当直医が神鋼加古川病院の転送拒否にあっており,これと話が混同した上に,伝言ゲームで憶測が加わって,大きなデマになったのではないかと考えます。

 さて,そのような事情を抜きにしても,この判決が異常な判決であることは既に紹介したとおりなわけですが,裁判記録閲覧を記念して,さらに突っ込んで批判しておきたいと思います。

 裁判記録を見ると,私がこの判決の最大の問題点であると指摘した,

本件注意義務が果たされていたならば,Aは,併発する心室細動で死亡することはなく,無事,再灌流療法(PCI)を受けることができ,90パーセント程度の確率で生存していたと推認することができる

という判断が誤りであることについては,被告病院側も,病院側主張である被告第3準備書面および被告第4準備書面で,以下のように繰り返し主張されていました。

(被告第3準備書面より)

3. 森医師は,「K病院受診後直ちに転送された場合」の死亡率が10%以下であると述べているので,上記統計を専門施設における下壁心筋梗塞患者死亡率が10%近いことを示す統計として引用していることになる。そして,森医師は,専門施設に転送していたら90%は救命できたというのであるが,この意見が専門施設に転送した場合の救命率を示すのであれば,専門施設に転送しなければ下壁心筋梗塞患者は100%死亡することを前提とする誠に乱暴な議論になってしまう。

(被告第4準備書面より)

死亡率について
(1) 森医師は「受診後直ちに転送されていた場合,下壁心筋梗塞の死亡率は10%以下であることにより,90%以上生存していた可能性がある」と意見を述べている。その趣旨が,専門病院に転送するのが50分でも遅れると100%死亡するが,直ちに転送すれば死亡率は10%以下になるから,50分ほど早く転送することによって(森医師の見解では1.5時間遅れ),90%以上の確率で究明できたという意味であるとすれば,それは明らかに根拠のない誤った見解である。

専門施設内の死亡率
(1) 再灌流療法を中心とする専門施設に収容されてからの死亡率は10%以下。
(2) また,このような専門施設内に収容されるのに,発症後平均3時間25分。2時間経過してから専門施設に収容されるまでの間に死亡した人数は,2時間内死亡率にも,専門施設収容後の死亡率にも含まれていない。すなわち,施設に収容されるまでの平均的な時間を経過した時点の死亡率は,2時間経過した時点の死亡率10乃至15%から,2時間経過後から収容されるまでの約1時間半の死亡率何%かを差し引いて考えなければならない。
 そうすると,専門施設に収容されてからの死亡率の改善もわずかなものであるということになる。残念ながら,それがその当時の,また,現在の医療水準の実情なのである。

 既に紹介した私の説明とはまた別の切り口ではありますが,「直ちに転送されていれば90%助かった」という裁判所の認定が誤りであることの主張としては,十分理解可能になっています。

 このような,何らかの条件が明らかになっている下での確率を求める考え方は,高校数学の「条件付き確率」に登場する考え方です。この判決を書いた裁判官は,2度にわたって被告準備書面に記された高校数学程度の考え方を理解できなかったということになります。しかも高校数学の中でも,微分積分などと違って計算自体に難しいところがあるわけではなく,また「可能性」という,司法判断を行うにあたって重要な部分を扱う内容なのですから,これを理解し正しく判断することは,裁判所に当然に要求される司法水準であるとして差し支えないと考えます。森功医師提出の原告側意見書においても「90%助かった」との誤った判断がなされていますが,だからといって,高校数学程度の内容にも適っていない誤った判断を,その誤りを被告準備書面でも指摘されているにも関わらず,裁判所が判断できなかったことは極めて重大な問題です。この事件が控訴されずに確定したことをもって,上記批判を免れることができるものではあり得ません。

 ここでふと考えるのですが,もしかするとこの判決のような「条件付き確率」を無視した判断が,各所の裁判所で横行しているのでしょうか。もしそのような司法慣行があるのだとしたら,なおさら問題です。先に述べた通り,「条件付き確率」の考え方は高校数学程度の内容であり,その内容も確率判断において重要なものなのですから,「条件付き確率」を考えない(理解できない)ことが司法慣行であったとしても,それをそのまま司法水準と考えることは相当でないと考えます。司法水準は,司法の注意義務の基準となるものですから,平均的裁判官が現に行っている司法慣行とは必ずしも一致するものではなく,裁判官が司法慣行に従った裁判を行ったからといって,司法水準に従った注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできないと考えます。

 さて,この判決を出した裁判官の方々は,上記のような確率判断をする上で基本になる考え方を,十分な時間がありながら正しく判断できなかったわけですが,ここでこの事件の担当医の診療を振り返ってみたいと思います。

 この事件の担当医は,当日未明にあった搬送拒否について,前夜の宿直医からその事実を聞いていましたが,どのような症例であったかについては,尋問の際に

前夜あるいは当日未明の転送拒否例については?
------ 細かいところまでは知らない。

と答えており,どのような内容の症例であったかまでは把握していなかったことが窺われます。また,転送を要請するにあたって,採血結果を待ったことについては以下のように答えています。

「ミリスロールIV開始するも症状軽減しないため,高砂市民病院へ転院」と書かれている。ミリスロールで一応様子を見たが,症状軽減しないので転送を決めたと読めるが?
------ この文章からそう取られるかと思うが,実際には痛みと心電図から常に転送を意識していた。

心電図の結果が出た段階で決めたと。
------ ほぼ決めたと思う。

ほぼというと,まだ様子を見ようというところもあったか?
------ 確実に(転送を)取っていただきたいという気持ちもあった。

明確に心筋梗塞と確定診断できる程度の症例まで断られたケースがあるのか?
------ どこで循環器の医師が引き取ってくれて,若しくは引き取らないという,そのライン分けというか線引きが良くわからないという思いだった。

結果が出てから転送依頼するというのはどうなのか。結果が出る前に,オーダーを出すと同時に転送依頼するということはできなかったのか。
------ それも可能とは思うが,ある程度資料をそろえて,自分のところでできる分の検査をそろえて転送先に相談しようと思った。

 つまり,詳細不明ながら心筋梗塞疑いでも搬送を断られた事例があったという事実を知った後であり,より搬送を確実に受けてもらおうとの考えで,採血データをなどが揃うのを待って搬送依頼をしたという事情が窺われます。私は一介の眼科医であり上記経過がどの程度妥当であるのかを断言することはできませんが,担当医の判断が合理性を欠いていたとまでは言えないのではないかと考えました。私のブログで書いたことですが,緊急輸血が必要な児童の親権停止に半日もかかるような司法から,また確率判断をする上で基本になる考え方を,十分な時間がありながら正しく判断できなかった裁判官から,70分程度の上記担当医の判断を過失だとか言われることには,繰り返しになりますが失笑しか出てこないというものです。念のため申し添えておきますが,私は何も好き好んでこのような批判をしているのではなく,むしろ難しい判断を要求される裁判官の方々を批判するのは心が痛むことです。その辺の基本的な考えは「裁判官の方々へのメッセージ」に記してありますのでご参照頂ければ幸いです。

 さてここで,兵庫医療問題研究会の声明を改めて眺めてみると,

自覚症状から急性心筋梗塞発症を診断しながら、血管拡張剤の点滴をしたのみで、70分間放置し、70分後に転送要請を行いました。

と書かれています。搬送を受け入れてもらいやすいようにと,データを揃える努力をしていたにも関わらず,「70分間放置」などと表現することには,名誉毀損の可能性はないのでしょうか。また,

また、「医師の搬送が遅れたら、患者や弁護士はおいしいと考える。なんら医学的な論争をせず、結果責任で裁判に勝てるのだから。これは、法律のすき間を縫った合法的な錬金術です。」などと、患者や患者側弁護士への不当な批判もなされています。

などとも書かれています。なるほど「医学的論争をせず」とか「結果責任」という部分は失当かもしれませんが,先に述べたように高校数学程度の確率の考え方も無視した因果関係認定で,医療者側の責任を認めて高額賠償させるような判断が現に存在する以上,それを「法律のすき間を縫った合法的な錬金術」と考えることは,あながち失当とは言えないと思います。この判決をさも公正・公平な判決であるかのごとく書き立て,我々の声を聞くべきだというような主張を繰り返す行為は,医療関係者を白けさせやる気を無くさせる結果につながるだけであり,医療崩壊を推し進める効果しかないのだということを,兵庫医療問題研究会医療問題弁護団の方々は,よくよく認識されたほうが良いのではないかと思います。

平成21年12月14日記す。


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2022年4月以降に動作ドラブル起きていることが判明しました。
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その後にメッセージをお送り頂いた方には、深くお詫び申し上げます。(2022/11/3記す)

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