奈良先天緑内障訴訟控訴審鑑定書

鑑定書

第1 鑑定事項

1 先天緑内障発症時期
1(1) Y(平成11年1月7日生まれ)は、奈良県立奈良病院眼科初診時(平成11年5月19日)または再診時において、先天緑内障を発症していたか。
 (2) 先天緑内障を発症していたと考える場合、どのような症状であったと考えられるか。発症時期に関する症例報告や統計なども含め、どのような根拠に基づき、どの程度の確実性をもって、その症状が存在していたと考えられるか。
 奈良県立奈良病院での再診時(平成11年8月3日)から永田眼科での初診時(平成12年10月6日)までの間の診療記録がないことは、上記の判断においてどのように考慮されるべきか。
 (3) 先天先天緑内障を発症していなかったと考えられる場合、平成12年10月6日の永田眼科初診時までの症状の推移は、どのようなものであったと考えられるか。またその根拠は何か。

2 奈良県立奈良病院における診療の適否
 (1) 奈良県立奈良病院の初診時(平成11年5月19日)において、Yの症状・所見及び受診経緯等から見て、先天緑内障を疑って眼圧測定をすべきであったと考えられるか。眼底検査についてはどうか。
 (2) 奈良県立奈良病院の再診時(平成11年8月3日)において、Yの症状・所見及び受診経緯等から見て、先天緑内障を疑って眼圧測定をすべきであったと考えられるか。眼底検査についてはどうか。
 (3) (1)、(2)の判断の根拠は何か。他の疾患と異なる特異な症状の有無、先天緑内障の発症率、症状経過の見通し、検査が患者に与える負担、当時の眼科診療の実情、奈良県立奈良病院の地域医療における役割等をも考慮して説明していただきたい。
 (4) 奈良県立奈良病院において、初診時と再診時に実際に行われた対処(生活指導や経過観察の支持なども含む。)は、不適切であったと考えられるか。その根拠は何か。

3 失明の結果回避の可能性
 (1) 奈良県立奈良病院において、初診時または再診時に、眼圧測定または眼底検査を行った場合、これにより先天緑内障の診断が可能であったと考えられるか。
 (2) (1)において診断が可能であったとして、奈良県立奈良病院において、その当時、先天緑内障に対し、どのような対処(治療、手術、生活指導、経過観察等)をすべきであったと考えられるか。
 (3) (2)において適切な対処がされていた場合、先天緑内障のその後の経過および現在の症状は、どのようになったと考えられるか。失明にいたることはなかったと考えられるか。本件で視力障害の原因となっている視神経萎縮の原因、症状経過に関する症例報告や統計なども含め、そのように判断する根拠は何か。

第2 鑑定結果
1 鑑定項目1(1)
 (結論) Y(以下「本件患者」という。)は、奈良県立奈良病院(以下「被告病院」という)眼科初診時または再診時において、先天緑内障を発症していた可能性が高いと考えられる。
 (理由) 本件患者が永田眼科を初めて受診した平成12年10月6日(約1歳9ヶ月)の時点において視神経乳頭陥凹比(C/D比)右0.9、左1.0と、視神経障害が非常に高度であった。つまり、永田眼科を初診する以前に高眼圧の状態が長期間持続していた可能性が高い。
 緑内障による視神経障害の進行は高眼圧の程度や眼圧値の変動、視神経局所の血液循環、視神経組織の眼圧耐性などに規定されるため、C/D比により緑内障既往の期間を性格に判断することは不可能と言える。しかし、本件患者の場合、C/D比が右0.9、左1.0と末期的障害に達していたことから相当長期(1年以上)に渡り視神経が高眼圧に曝されていたと推定される。
 本件患者は、先天緑内障の病型分類中、隅角線維柱帯のみが異常で、他に眼科的、全身的先天異常のない原発先天緑内障(早発型発達先天緑内障とも呼称される)と考えられる(乙A3)。1992年度に行われた本邦の先天緑内障全国調査によると原発先天緑内障の発見時期は出生後6ヶ月以内が44.8%、同1年以内が72.4%である(資料1)。つまり、疾患の特性としても被告病院眼科再診時(生後約7ヶ月)までに眼圧上昇を来たしていた可能性は十分にある。後述する理由により、本件患者が被告病院眼科を受診する動機の一つであり、また、再診時のカルテ問診記録にもある羞明を眼圧上昇が原因とする判断と合わせ、被告病院眼科初診時または再診時に先天緑内障を発症していた可能性があると考えられる。

2 鑑定項目1(2)
 (結論) 本件患者は、被告病院眼科初診時または再診時において、羞明、流涙、結膜充血があったと考えられる。
 (理由) 原発先天緑内障が発見される契機には羞明、流涙、結膜充血などの非特異的な兆候、他覚所見と角膜混濁、角膜径増大など先天緑内障に特徴的な他覚所見がある(資料2)。緑内障における羞明、流涙は眼圧上昇による角膜上皮浮腫に伴う眼局所の刺激が原因であり、比較的経度の眼圧上昇でも起こり得る。一方、角膜混濁、角膜径増大は軽度の眼圧上昇では認めない場合があり、またこれらの兆候、所見は緑内障発症初期には一定せず、増悪および緩解がみられる(資料2)。つまり、被告病院眼科初診時または再診時において、角膜混濁、角膜径増大などの多角的所見は見られず、眼圧上昇に対してより鋭敏に反応し出現する羞明や結膜充血のみがあった可能性がある。
 被告病院眼科初診時および再診時にみられた眼脂、結膜充血、羞明は結膜炎など他の眼疾患でもみられる所見であり、眼圧上昇以外に原因があった可能性は否定できない。被告病院眼科での再診時から永田眼科での初診までの間の診療記録がないことは、角膜混濁、角膜径増大など先天緑内障の診断により有用な所見が出現した時期が不明であることを意味しており、ひいては本件患者が先天緑内障を発症した時期の道程を困難なものにしている。

3 鑑定項目2(1)(2)(3)
 (結論) 被告病院眼科の初診時において、本件患者の眼圧測定、眼底検査をすべきであったとは考えられない。一方、再診時においては、本件患者の眼圧測定、眼底検査をすべきであったと考えられる。
 (理由) 被告病院眼科初診時において、本件患者の主訴は眼脂と白目(球結膜)のにごりであった(乙A1)。カルテには眼脂、結膜充血を認め、下涙点が閉塞気味であり、拡張針を通したこと、また、角膜、前房は清明と記載されている(乙A1)。被告病院眼科の初診時において本件患者の診断名は結膜炎であるが、T医師は鼻涙管閉塞も考慮し、涙道ブジーの処置を行ったものと考えられる。新生児および乳児において流涙、眼脂は比較的良く見られる症状であり、その原因は涙道、つまり、上、下眼瞼のそれぞれ鼻側縁にある涙点から涙のうを経て鼻腔への開口部に至る涙の排出経路が未発達なため起こる疾患である。また、先天性鼻涙管閉塞は涙のう炎を合併することがあり、この場合は結膜充血を来す。以上より、初診時においてT医師が本件患者の眼脂と結膜充血から、結膜炎、先天性鼻涙管閉塞と診断したことに医学的非合理はないと考えられる。
 一方、原発先天緑内障は希な疾患であり、1992年度の先天緑内障の全国調査における発症頻度は109,414人に1例であった(資料1)。小児専門施設の眼科においても、他府県からの紹介患者を含めた原発先天緑内障の初診患者は年間数例である。従って、一般病院に勤務する眼科医師が原発先天緑内障を診断する機会、診療経験は非常に少ないと考えられ る。以上の状況に加え、初診時の本件患者において先天緑内障に特徴的な角膜混濁、角膜径増大を認めないか、少なくとも顕在化していなかったことから、T医師が結膜炎、先天性鼻涙管閉塞のほかに先天緑内障を本件患者の主訴の原因疾患に含め、その診断に必要な眼圧測定、眼底検査を行わなかったことは、医師として非適切な対応とまでは言えないと考えられる。
 次に、被告病院眼科の再診時において、本件患者の主訴は点眼を中止すると目が充血することと、戸外での羞明である(乙A1)。カルテは問診の記録として眼脂、流涙がないことが、また、診療記録として結膜の充血が疑われること、角膜、前房は清明と記載されている(乙A1)。初診時に認めた眼脂、流涙は消退していたことから、結膜炎は治癒または改善していたと認識すべきであったと考えられる。さらに、再診の理由であった目の充血が完治しないという主訴、および、結膜充血の所見を重視し、結膜炎、先天性鼻涙管閉塞の他に主訴の原因となる疾患を疑い精査する必要があったと考えられる。鑑別疾患には緑内障が含まれ、その診断のために眼底精査、眼圧測定が行われるべきであったと考えられる。
 1992年度の緑内障全国調査によると、原発緑内障では異常発見と診断時期の間に2~3ヶ月のずれがある例が多い。(資料1)。これは緑内障の診断につながる何らかの眼の異常が発見されたとしても、兆候、所見が羞明、眼脂、結膜充血など先天緑内障に原因が特定されない異常であった場合、異常発見と同時に診断がなされない先天緑内障の診療の困難さを示すものである。その一方、異常発見から2~3ヵ月後には診断が行われている事実も注目せねばならない。本件患者の被告病院眼科における再診は、先天緑内障を診断する良い機会であり、眼の充血が完治しないとの主訴を軽視することなく、あらゆる原因を視野に入れて検査が行われるべきであったと考えられる。検査への協力がない乳幼児の場合、十分な眼底検査を行うためには散瞳薬を点眼する必要があり、また、眼圧測定には催眠鎮静薬を服用または座薬として投与する必要がある。乳児は循環系が未熟なため散瞳薬の使用により一時的な心機能障害が、また、呼吸抑制がかかりやすいため催眠鎮静薬の使用により呼吸停止を来たすなどの危険性がある。しかし、これら薬剤の副作用が 発現する頻度は低い。鑑定人は1年間に約100名の乳幼児患者に対し、催眠鎮静薬を使用して眼圧測定を施行しているが、呼吸抑制をきたす例は数年に1名程度である。仮にT医師が臨床経験上、乳児への散瞳薬、催眠鎮静薬の投与に伴う危険性について判断することが不可能であったとしても、総合病院である被告病院においては小児科医に助言や補助、事後の処置を依頼することは出来た。以上のことにより、視機能に重大な障害を来たす可能性がある先天緑内障の診断に際して、薬剤使用に伴う危険性の認識は、眼底検査および眼圧測定を回避する理由にならないと考えられる。
 被告病院病院は奈良県下最高次の病院であり、地域医療における役割として所属する医師は各自の専門分野にかかわらず、全ての年齢層の患者のあらゆる疾患を想定して診療に当たる責務を有していると考えられる。

4 鑑定事項2(4)について
 (結論) 被告病院眼科において、初診時に行われた対処は不適切であったとは考えられない。一方、再診時に明確に経過観察が指示されなかったことは不適切な対処であったと考えられる。
 (理由) 被告病院眼科の初診時において、T医師が本件患者の眼脂、結膜充血に対して結膜炎と診断し、抗菌剤の点眼(タリビッド点眼)を処方したことは不適切であったとは考えられない(乙A1)。ただし、治療の反応を確認する目的で経過観察を指示することまでが望ましかったと考えられる。
 被告病院眼科の再診時において、本件患者の主訴であった羞明と結膜充血の原因が確定しないまま、次回受診の判断は本件患者の家人に委ねられた。T医師は診断が確定していないこと、その後に他の眼所見が出現する可能性を考慮し、経過観察の必要性を家人に説明するとともに、眼の状態に変わりがない場合は1ヶ月から2ヵ月後に受診する様、また、眼の状態に変化がある場合はその時点で速やかに受診する様、明確に指示すべきであった。再診以降も経過観察することにより、本件患者の角膜混濁や角膜径増大が発見され、永田眼科を受診する以前のより早期に先天緑内障の診断が可能であった可能性があったと考えられる。

5 鑑定事項3(1)について
 (結論) 被告病院眼科において、初診時または再診時に眼圧検査または眼底検査を行った場合、これにより先天緑内障の診断が可能であったと考えられる。
 (理由) 被告病院眼科において、初診時に流涙と結膜充血を認め(乙A1)、カルテの問診記録から再診時に羞明および結膜充血の遷延があったと考えられる(乙A1)。先天緑内障において流涙、羞明、結膜充血は、眼圧の上昇による角膜上皮浮腫に伴う眼局所の刺激が原因で起こる。T医師は診察の結果、角膜混濁はないと判断していることから、仮に初診時または再診時に先天緑内障の発症があったとして、眼圧の上昇は比較的軽度であった可能性がある。しかし、実際に眼圧を測定することにより羞明、結膜充血の原因として、乳児の正常眼圧である10mmHg(資料2)より十分に高い眼圧を確認しえたと考えられる。
 緑内障において、眼底検査による重要な所見は視神経乳頭陥凹の状態である。乳幼児期の正常な視神経乳頭にはほとんど陥凹がないか、非常に小さく浅い陥凹を認めるのみである。小児期の先天緑内障では眼圧の上昇に伴い、先ず視神経乳頭の中央部が深く陥凹を始め、次第に陥凹の範囲の拡大と深さを増してゆく。乳幼児の場合、視神経乳頭部の結合組織の弾性が高いため眼圧変化に鋭敏であり、軽度の眼圧上昇でも陥凹変化がみられ、緑内障初期の診断に有用である。

6 鑑定事項3(2)について
 (結論) 先天緑内障の診断が可能であった場合、被告病院眼科において、眼圧測定値、視神経乳頭陥凹の状態などにより、薬物治療をしながらの経過観察または手術の何れか必要な対処を判断すべきであった。手術が必要と判断された場合は、被告病院眼科において本件患者患者の手術を実施するか、先天緑内障の治療経験が豊富な施設に手術を術後管理を依頼すべきであった。
 (理由) 眼圧値が20mmHg以下と比較的眼圧上昇が軽度で、かつ、視神経乳頭の陥凹変化が小さい場合は、まず薬物治療を行い、以後、眼圧の変動および視神経乳頭陥凹の変化に注意しながら経過観察を続ける必要がある。眼圧値が20mmHg以下であれば視神経障害は進行しない可能性もあり、不要な手術侵襲は避けるとともに、長期的に見て将来、必要となる手術の実施総数を抑えることが配慮されて良いと考えられる。
 一方、眼圧値が20mmHg以下であっても視神経乳頭に拡大変化を認める場合は、視神経障害の進行を回避する目的から手術を行う必要がある。また、眼圧値が20mmHgを超えている場合は、視神経乳頭陥凹の変化の有無に関わらず、視神経障害の予防または進行防止を目的に積極的に手術による眼圧管理を計るべきと考えられる。

7 鑑定事項3(3)について
 (結論) 適切な対処がなされていた場合、先天緑内障の進行は防止され、現在の視覚障害は失明にまで至ることはなかったと考えられる。
 (理由) 先天緑内障において、視力、視野などの視覚予後は、胎児期も含めた発症時点から治療までに進行した視神経障害の程度、手術等の治療による眼圧管理の状態、および、7歳ごろまでの視覚発達時期における弱視治療の成否により決まる。本件患者の場合、被告病院眼科初診時または再診時において、先天緑内障を発症していた場合、その既往期間に既に視神経障害が進行していた可能性がある。しかし、当時、明らかな角膜混濁、角膜径拡大などはみられなかったことから、既往期間における眼圧上昇は比較的緩徐であり視神経障害の進行は軽度に止まっていた可能性が高い。つまり、本件患者の視力障害の原因となっている視神経萎縮は、被告病院眼科再診時から数ヶ月程度の猶予の後、永田眼科の受診時(平成12年10月6日)までの期間に手術等の治療、眼圧管理を受けずに高眼圧の状態で経過した事による視神経障害が原因と考えられる。
 原発先天緑内障は手術が奏功する例が多く、80~90%が術後、良好に眼圧管理される。(資料2)。手術によっても眼圧管理が不良な難治例が存在するが、本件患者患者は永田眼科において、手術反応は良好であったことから(乙A3)、難治例とは考えられない。また、原発先天緑内障の視力予後は良好な例が多く、光覚弁に至る重度の視力障害例は極めて希である。(資料3)。従って本件患者が、被告病院眼科初診時または再診時以降の早期に手術を受け、手術後も適切な眼圧管理と弱視治療が行われていた場合、視覚障害は軽度にとどまった可能性が高いと考えられる。

第3 受領した以外の鑑定資料
1.滝澤麻里、白土城照、東育郎; 先天緑内障全国調査結果(1992年度).あたらしい眼科1995;12, 811-813
2.石田恭子、山本哲也; 診断と管理、小児の緑内障; 緑内障. 医学書院, 2004.
3.Magda Barsonn-Hosmy, M.D. et al.; Incidence and Prognosis fo Childhood Glaucoma. Ophthalmology 1986; 10. 1323-1327.

注:全て手で写してきたものであり、原本の写し間違いがありえます。また「第3」の部分は正確に写してきたものではありません。


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