カテゴリー「Twilight Zone」の記事

オレの正月は4月だ  ( 1995年の思い出話)

2001年1月2日

今年は卒業試験と国家試験の年。6年前=1995年の受験の頃を思い出す。

代々木ゼミナールでは,受験生向けのスローガンとして「僕たちの正月は三月だ!」という張り紙を張って,受験生の士気を鼓舞していた。これは実は,前回の受験時(1986年)にもすでに使用されていたフレーズであったので,1995年の正月ゼミでその張り紙を見たときには懐かしさを覚えたものだった。

しかし,世のアナーキー度が増した1995年では,張り紙の運命は悲惨なものであった。
まず,1月2日には「僕たちの正月は三月だ!」の「三」の字に縦線が落書きされて「五」になっていた。
1月3日には「五」の前に「妊娠」の文字が,「五」の後には「ヶ」の文字が落書きされて「僕たちの正月は妊娠五ヶ月だ!」になっていた。
 1月4日にはその張り紙はなくなっていた。

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マイ・チーム (1990年の思い出話)

2000年10月30日

シアトルのユースホステルでのお話。
15年ほど日本に住んでいたという40歳近いアメリカの女性が泊まっていた。日本語ができるのでいろいろ話したが,いつしか野球の話になった。
「私は巨人が大好きだった。巨人の野球を観に行って大声で応援したものだった。アメリカに戻ってきてからも野球は観るけれど,巨人を応援するように熱狂的には観れない。」
巨人のことを口にするだけで,遠い目になっているようだった。
「誰がやってた頃ですか?」
「最後の頃は監督が川上さんで,長嶋,王,藤田…」
「長嶋とか藤田はその後巨人の監督をやったんですよ。長嶋はいいときと悪いときがあったけど,藤田は優秀だった」
と,かつてのヒーローがその後も活躍していることを伝えると,言葉無く目が潤み出した。彼女にとっての強固なマイチームが,彼女が離れていた時間を超えて,連続性を見せながら彼女の琴線に迫ったのだろう。

彼女が今年の日本シリーズを観ることができていたならば,彼女はどんな気持ちで観ていただろうか…

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射撃の練習  (1990年の思い出話)

2000年9月30日

坂の多いシアトルのダウンタウンの運転にもようやく慣れてきた滞在3日目,アメリカでは拳銃の射撃練習場があるというので,入ってみることにした。フリーペーパーで情報を仕入れて行ったのだが,道に迷った。迷っているうちに警察署があったので入って訊ねることにした。
“Hello”というあいさつに続いて,つたない英語で”I want to shoot a gun for joy”(遊びで銃を撃ちたい)と言った途端に,その場の空気が変わった。応対してくれた婦警さんの顔がこわばり,”You want to shoot a gun for joy???!!!”と訊ね返してきた。一瞬の間の後,婦警さんの緊張の理由を察知した私は,つたない英語に身振り手振りで必死に釈明した。婦警さんの後ろで,私の意図を察知してくれた別の警察官が,婦警さんに声をかけてくれて,ようやく事なきを得た。アメリカ旅行での2番目の大緊張の経験であった。
無事射撃場の場所を教えてもらい,ほどなく到着して射撃を体験した。

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奇才 (1990年頃の思い出話)

2000年9月17日

同じ学部の先輩が幼稚園児だったときの話を思い出したのでちょっと書いておこう。

幼稚園で受けた知能テストの,人間の顔半分が描いてあり「のこりをかきなさい」という問題で,その先輩は「人体図鑑」で見た絵を思い出して,残り半分に顔の解剖図を描いたため,大騒ぎになったそうだ。

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南北海道修羅場(その4)  (1987年の思い出話)

2000年3月1日

競馬に関心をもって間もない1987年,私の父の旧友が北海道の新冠で牧場を経営しているらしいという話を聞いて,訪ねてみることにした。
連絡は現地に着いてから電話帳を調べることで解決した。「○○ちゃんの息子さんかぁ!」ということで認識してもらえたので,早速訪ねた。
新冠といっても新冠駅からは程遠い,牧場にしては奥まった地にその方の家はあった。着いてみると家の中はがらんどうで,そこに旦那さんと奥さんがいらっしゃるだけだった。
「実は,今日引越しをしたんですよ。」
北海道にあこがれて移り住んだが牧場経営が芳しくなく,切りをつけて出身地に戻ることにしたということだった。
しかしそれよりも衝撃的だったのは,
 「ここら辺ではほとんどないけど,うちは牛専門の牧場だったんですよ」
という一言だった。

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