2010年11月の記事

宮川光治裁判官の余計な一言

2010年11月16日

日航機ニアミス事故の最高裁棄却決定書の話です。
 事件そのものは,管制官の言い間違いを端緒として,コンピュータによる事故防止機構であるTCASもうまく機能せず,結果的にニアミスを引き起こしたというもので,言い間違いという過失は明らかであり,それがニアミスにつながったという判断は,TCASの介在があったとはいえ,誤っているとも言えないもののようです。事件については町村先生のブログからご確認下さい。
 私はこの事件で被告人らの有罪が確定したことには憂慮をしますが,しかし過失と因果関係の有無という点では,一般的な刑事司法の判断方法からすれば,有罪という結論になることには止むを得ない面があり,その点では高裁判決を出した裁判官らや,棄却決定を出した最高裁裁判官らを責めても仕方がないのかも知れないと思います。
 しかしそうは言ってもこの有罪確定が何とも腑に落ちないのは,言い間違いという,誰しもが日常生活で犯しうるちょっとした間違いが犯罪と認定されたということです。宮川光治裁判官は「緊張感をもって,意識を集中して仕事をしていれば,起こり得なかった事態である」などと断定しています。確かに緊張感をもって仕事をすれば間違いを減らせる可能性はあるかも知れませんが,それでも間違いを完全にゼロにできるとは言い切れないというほうが,むしろ一般的な感覚ではないかと思います。むしろ,緊張感を持っている時こそ,その緊張感が仇となって,かえって間違いに気づかない可能性すらあるのではないかと思われます。「緊張感を持って仕事をすれば,間違いなど起こさない」という考えは,証拠を伴わない単なる空想なのであり,現実に即していない単なる願望に過ぎないのです。もし本当に,緊張感をもって意識を集中して仕事をしていれば,間違いは起こさないものだというのであれば,例えば,2年もかけてお粗末な矛盾判決を含んだ判決を書いた,一宮身体拘束裁判の高裁裁判官らなどは,緊張感を持たずに仕事をしていたということになるでしょう。その裁判官らは法的に罰せられることはないにしても,緊張感をもって意識を集中して仕事していないような裁判官なのですから,左遷されるなどの不利益があってしかるべきだと思われます。
 どんなに重要な場面であっても間違いを起こす場合があることは,それはもう人間の限界なのであって,そのようなヒューマンエラーを低減すべくコンピュータを用いて対策を講じたところ,それがかえって事故を導き出した可能性があったというのが,今回の事件です。そのような事故で,事故の端緒となったからといって,単なる言い間違いをした管制官(およびそれに気付かなかった管制官)だけを刑罰に付すことが,一体何の正義なのか理解不能です。既に述べたように,言い間違いなどというものは日常誰もが起こしうるミスでしかないのですが,それに対して結果が悪ければ刑罰を与えるというシステムは,恐怖政治であり,強権司法なのではないかと考えます。百歩譲って,そのようにすることが安全向上に資するという確証があるのであれば,渋々ながら首肯せざるを得ないのかも知れませんが,単なる言い間違いを罰することが安全向上に資するという証拠はどこにもないでしょう。わざと言い間違いをしようなどという悪意を持った人間は別として,通常業務において言い間違いを犯してしまう瞬間というのは,一種の心神喪失状態であると捉えることもできるでしょう。そのような状態で犯した所業を罰することは,却って人権侵害とすら言えるのではないかと思います。
 業務上過失致死傷罪の存在に異議を唱える人がほとんどいない日本の法曹界は,総じて人権意識が希薄であるかのように,私には映ります。少なくとも,今回のようなシステムエラーが問題となる事故において,その端緒となった被告人を有罪とすることについて,「緊張感を持って仕事をすれば,間違いなど起こさない」などと,実生活上の現実と異なる前提を持ち出して肯定しようという人が,最高裁判事を務めているような国においては,業務上過失致死傷罪などというものは,ナントカに刃物になりかねない恐怖の悪法であると思われます。ま,上記のような意見を書いてしまった宮川光治裁判官も,単に緊張感を持って仕事をしていなかっただけなのかな,と想像することもできますが,そうであればその点は赦すとしても,その現実直視力の貧困は,裁判官として働くには不適格なのではないかと思う次第です。
 単なる言い間違いを刑法犯として処分することに,一点の疑義も抱かないような法律家は,法律家であることを辞めたほうが良いと思います。
 そういえば,落合洋司弁護士が書いたこの記事も酷いものがありますね。恐らく人権意識に乏しいのでしょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加