令和4年3月11日: 東日本大震災トリアージ訴訟を掲載
Twilight Zone -2-
2001/3/9 02:17 雄武(おうむ)のパチンコ屋 (北海道旅行記) (Twilight zone ~ 1985年ころの思い出話)
北海道のオホーツク側の北のほうの小さな街,雄武での話。
中学1年だか中学2年だかの夏休み,家族と親戚とで北海道を旅行したとき,雄武という小さな街に泊まった。夜父親に連れられて,小学生以来久しぶりにパチンコ屋に入ったのだが,小さな街のたった一軒のパチンコ屋で,お客さんはまばらだった。それでも当時デビューしたてで,まだ出玉規制のない出放題のフィーバー機(というのかな? 777がそろうと無制限に出るヤツ)があった。尤も我々はそのシステムを分かっておらず,どの台を見てもデジタル数字が光っていたので,それで打つことにしたのだが。
しばらくして親父が777を出した。したがって親父の台は玉が出っぱなしになった。しかしその仕組みを分かっていない親父は「台が故障した」と言って手を離してしまった。程なくポケットは閉じ,数字は再び回り始め通常の状態に戻った。結局獲得して景品に換えた玉は1000個に満たなかったと思う。店員のおじさんが「あれ,フィーバーしてたじゃないの?」と言って不思議がっていた。
後になって「フィーバーしたら打ち止めになるまで打つものだ」ということが分かって親父曰く,「こんな知らない小さな街の,人もあまり入っていないパチンコ屋で,儲けないほうがいいんだよ」と。
カネはカネ持ちから集金すべし |
2001/3/6 01:30 一番サカッてた頃 (Twilight zone ~ 1991年の思い出話)
あと12日で国家試験,ということでそれなりにペースを掴んで勉強してるわけだが,休憩・食事も入れて14~15時間が限度で,夜になるとこうしてネットをいじってるあたりが,もはや往年の勢いは無いということだろうか。記憶力も集中力も一番すごかったのは1991年~1992年の韓国語勉強時と,1994年~1995年の再受験のとき(フランス語勉強時)だろう。つまり,25歳前後が記憶力の絶頂だったということである。
その1991年に使っていた小さい手帳は,私が「初めて外国語を実用的に勉強した」印として宝物なのである。常に持ち歩き,韓国の友人達と話している時,初耳の単語や気になるフレーズがあると,すかさずそれを取り出し話を中断してメモするので,友人達に恐れられていた手帳である。しかし恐れられようが,それが私の勉強姿勢だったし,それだけのねちっこさがあってこそモノになると思ったので,手帳は肌身離さず持ち歩いたものであった。おかげで気の合う人なら韓国人でも日本人同様に友達になれるし,さらにおまけとして,再受験では韓国語のために大きなアドバンテージを見た。
しかしその手帳を今見返してみたら複雑な気持になってしまった。というのは最初の最初のほうに「勃起する」という単語が出てきたためである。
気になる単語から覚えるのが近道 |
2001/1/2 02:04 オレの正月は4月だ (Twilight zone ~ 1995年の思い出話)
今年は卒業試験と国家試験の年。6年前=1995年の受験の頃を思い出す。
代々木ゼミナールでは,受験生向けのスローガンとして「僕たちの正月は三月だ!」という張り紙を張って,受験生の士気を鼓舞していた。これは実は,前回の受験時(1986年)にもすでに使用されていたフレーズであったので,1995年の正月ゼミでその張り紙を見たときには懐かしさを覚えたものだった。
しかし,世のアナーキー度が増した1995年では,張り紙の運命は悲惨なものであった。
まず,1月2日には「僕たちの正月は三月だ!」の「三」の字に縦線が落書きされて「五」になっていた。
1月3日には「五」の前に「妊娠」の文字が,「五」の後には「ヶ」の文字が落書きされて「僕たちの正月は妊娠五ヶ月だ!」になっていた。
1月4日にはその張り紙はなくなっていた。
代ゼミってのはそんなものか |
2000/10/30 02:33 マイ・チーム (1990アメリカ壱ヶ月)
シアトルのユースホステルでのお話。
15年ほど日本に住んでいたという40歳近いアメリカの女性が泊まっていた。日本語ができるのでいろいろ話したが,いつしか野球の話になった。
「私は巨人が大好きだった。巨人の野球を観に行って大声で応援したものだった。アメリカに戻ってきてからも野球は観るけれど,巨人を応援するように熱狂的には観れない。」
巨人のことを口にするだけで,遠い目になっているようだった。
「誰がやってた頃ですか?」
「最後の頃は監督が川上さんで,長嶋,王,藤田…」
「長嶋とか藤田はその後巨人の監督をやったんですよ。長嶋はいいときと悪いときがあったけど,藤田は優秀だった」
と,かつてのヒーローがその後も活躍していることを伝えると,言葉無く目が潤み出した。彼女にとっての強固なマイチームが,彼女が離れていた時間を超えて,連続性を見せながら彼女の琴線に迫ったのだろう。
彼女が今年の日本シリーズを観ることができていたならば,彼女はどんな気持ちで観ていただろうか…
2000/9/30 01:43 射撃の練習 (1990アメリカ壱ヶ月)
坂の多いシアトルのダウンタウンの運転にもようやく慣れてきた滞在3日目,アメリカでは拳銃の射撃練習場があるというので,入ってみることにした。フリーペーパーで情報を仕入れて行ったのだが,道に迷った。迷っているうちに警察署があったので入って訊ねることにした。
"Hello"というあいさつに続いて,つたない英語で"I want to shoot a gun for joy"(遊びで銃を撃ちたい)と言った途端に,その場の空気が変わった。応対してくれた婦警さんの顔がこわばり,"You want to shoot a gun for joy???!!!"と訊ね返してきた。一瞬の間の後,婦警さんの緊張の理由を察知した私は,つたない英語に身振り手振りで必死に釈明した。婦警さんの後ろで,私の意図を察知してくれた別の警察官が,婦警さんに声をかけてくれて,ようやく事なきを得た。アメリカ旅行での2番目の大緊張の経験であった。
無事射撃場の場所を教えてもらい,ほどなく到着して射撃を体験した。
2000/3/1 03:01 南北海道修羅場(その4) (Twilight zone ~ 1987年の思い出話)
競馬に関心をもって間もない1987年,私の父の旧友が北海道の新冠で牧場を経営しているらしいという話を聞いて,訪ねてみることにした。
連絡は現地に着いてから電話帳を調べることで解決した。「○○ちゃんの息子さんかぁ!」ということで認識してもらえたので,早速訪ねた。新冠といっても新冠駅からは程遠い,牧場にしては奥まった地にその方の家はあった。着いてみると家の中はがらんどうで,そこに旦那さんと奥さんがいらっしゃるだけだった。
「実は,今日引越しをしたんですよ。」
北海道にあこがれて移り住んだが牧場経営が芳しくなく,切りをつけて出身地に戻ることにしたということだった。しかしそれよりも衝撃的だったのは,
「ここら辺ではほとんどないけど,うちは牛専門の牧場だったんですよ」
という一言だった。
2000/2/28 17:27 トワイライト・ワールド (1990アメリカ壱ヶ月)
ふと気付いたのだが,初めて海外旅行をしてから丁度10年になる。10年も経つと,枝葉末節な記憶は削ぎ落とされて,おいしい部分だけが残るもの。当時書きしるした簡単な旅程の記録を元に,記憶に残っている事件を順を追って書いてみる。
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1990年2月26日,西海岸のカナダに程近いシアトルに飛んだ。初めての長い長い飛行機搭乗の疲れは,着陸前の上空から右側を走る車の姿を見た興奮にかき消された。私は5週間の予定でレンタカーを予約してあった。我が国と違う交通法規の国を走り倒すのだという期待が高まった。
しかし初めての外国はそんなに甘くなかった。レンタカーの受付では,車を「借りれる・借りれない」で大騒動。予想通り意思疎通もままならず,受付台にしがみつき粘ること数十分,係の人によくよく調べてもらってやっと借りることが出来た。
街に出れば逆側通行。経験者にはわかるだろうが,慣れるまでの苦労は筆舌に尽くしがたい。1kmも走らぬうちにパニックになった。片側3車線の道路の,信号のない横断歩道の手前で車を止め,気持ちを整理しようと外に出た。すると他の車がすべて横断歩道の手前で止まってしまった。「そう言えば日本でも教習所ではそう習ったなぁ」などと考えながら車に戻り,休んだ。そしてカーラジオをつけて意を決して再び走り始めた。
泣きそうになりながら走りつづけているとき,ラジオから聴きなれた曲が流れてきた。Swing out Sisterの Twilight worldだった。
Forget lonely crowds, unfriendly faces
They'll soon become familiar places
Before too long, before too long...
(孤独な人混みや愛想無い表情は忘れなさい
そんな場所でもすぐに馴染みになるわよ
遠からず,遠からず…)
異国の地で思いもよらず耳にした馴染みの歌、重い疲労を癒すのに十分であった。
2000/2/27 23:29 南北海道修羅場(その3) (Twilight zone ~ 1986年の思い出話)
大学に入学して最初の北海道旅行。自転車ツーリングサークルに所属した私は,スポーツサイクル車を分解してを函館まで汽車で運んで,函館で組み立てなおして自転車で旅をすることにした。ツーリング愛好家がよくやる方法である。
初日は函館に遅くに午後に到着したので,20km程度走って大沼公園で泊まった。そして二日目は頑張って百数十km先の洞爺湖まで走った。しかしその後自転車で走るのが面倒になり,北湯沢という温泉地で2泊,室蘭で2泊した後,ついに苫小牧で自転車を再分解し,自転車をかついで汽車で旅をはじめたのだった。
軟弱者と呼んでくれ |
2000/2/24 00:07 リピーターの北海道 (Twilight zone ~ 1981年の思い出話)
初めて北海道を訪れたのは,中学1年生を終えた春休みだった。同級の友人との,釧路に住む恩師を訪ねる旅だった。千歳まで飛行機,そこから急行狩勝号で釧路に向かったのを思い出す。
釧路の目抜き通りの末端にかかる「幣舞橋(ぬさまいばし)」。そこに設置された裸体の女性の彫刻4体を見て,ちょっとどきどきした感触が今も残っている。かれこれ19年前のこと。「さすが北海道だ」と思ったものだった。
なんせ13歳ですからね、当時。 |
2000/2/12 00:40 南北海道修羅場(その2) (Twilight zone ~ 1982年の思い出話)
以下の話は,私のHP(ここ)のTwilight Zone(過去の思いだし話)のコーナーに必ず書き残そうと思っていた話である。私の人生の中でも,最も印象に残っている話のうちの一つである。
渡島当別駅から長い冬の終わりの雪の中を歩き,ポプラ並木の先にトラピスト修道院が見えてきた。見学に訪れていたのは,私のほかに大学生とおぼしき男性3人女性1人のグループ。ところが受付の修道士さん曰く「見学したい人は予約するんですよ」とのこと。そこを中学生の若さに一人旅ということで,お目こぼしで大学生グループと一緒に見学させてもらうことができた。トラピスト修道院は男性修道院であり女性は入院禁止のため,女性一人は外で待つこととなった。
見学が一通り終わると,大学生3人は女性を気遣い早々と外に出た。そこに通りがかった老修道士が「時間があればゆっくりしていきなさい」と私に一言。時間があった私はその老修道士の言葉に甘えることに。「私の部屋に来なさい」との誘いに「キリスト教の話でも聞かされるかな?」と思いつつ,興味半分でついていくことにした。
部屋までの道中老修道士は,雪に足をとられぬよう注意して歩く私の手をとった。中学生と老修道士。手をつなぐことがなんだか不思議な気もしたが,これが修道士というものかと思い私も手を握ったところ,老修道士は力いっぱい手を握ってきた。どうしていいのかわからないまましばし歩くと,老修道士の部屋に着いた。
部屋に入ると老修道士は,今にも顔から湯気が出そうな勢いで興奮して気色ばっていた。「おお,私の可愛い可愛い子供よ!」と言いながら老修道士は私を力いっぱい抱きしめてきた。もうどうしていいかわからない私は,ただただ何事もなく終わってくれと祈るばかりであった。しかるに老修道士は,今にも私の唇を奪わんばかりの勢いで顔を近づけてきて,私に頬ずりをする。私は力いっぱい避けることもままならず,既に脱力している腕の力を振りしぼってやっとのことで抵抗するのが精一杯だった。
凍る時間。私のなけなしの抵抗が通じたのか,私の唇は奪われることなく抱擁は解かれた。しかしその事件は,中学生の少年の心の奥深くに何をか残すのには充分すぎるほど強烈であった。
聖人と俗人は紙一重 |
2000/2/1 23:07 一番古い記憶 (Twilight zone ~ 1971年ころの思い出話)
自分の一番古い記憶。
「幼稚園のお遊戯の時間に,「右」と「左」の概念がつかめなくて困っていたこと。」
2000/1/25 12:00 大阪ショック(その4) (Twilight zone ~ 1993年ころの思い出話)
大阪で道を訊ねた。
私:「アメリカ村はどこですか?」
大阪人:「あっち行って左に行かはったらええです。嫌でも着きます。」
2000/1/24 12:00 南北海道修羅場(その1) (Twilight zone ~ 1982年の思い出話)
当時私は中学2年生。北海道に転勤した恩師を訪ねる一人旅の道中,函館の西に位置する松前を訪れた。駅前の食堂で昼食を摂っている時,合い席となった男性と会話を交わした。
男性:「何年か前まで東京にいたんですよ」
私:「働いていたんですか?」
男性:「さわり魔だったんです」
私:(…声もなく凍る)
男が東京でしていたのは「さわり魔」ではなく,「サラリーマン」を聞き違えたのだったと気がついたのは,高校生になってからだった…
2000/1/23 12:00 日韓長寿対決 (きんさん追悼記念) (Twilight zone ~ 1997年の思い出話)
何気なくスカパーの韓国TV放送を見ていると,バラエティー番組のスタジオに,きんさんぎんさんが登場した。きんさんぎんさんの一語一挙動に場内は爆笑の連続。しばらくして,今度は韓国最長寿のおばあさんが登場した。沸く場内に相反して,韓国おばあさんはやや力が無い。中央に韓国おばあさん,左右にきんさんぎんさんという位置どりで座布団に座った3人,いつしか司会者そっちのけでけたけた笑ながら話し出したので,司会者が「言葉はわかるんですか?」と訊ねると,ぎんさんが「ぜ~んぜんわかりません」と答えて,場内爆笑。
一番強烈だったのは次のうけこたえ。
司会者:「悩みはありませんか?」
韓国おばあさん:「こんなに長生きして申し訳無い…」
きんさん:「な~んにもありゃしません」(大爆笑)
番組は,ぎんさんから韓国おばあさんへの「長生きしてください」との言葉で幕を下ろした。
長生きが幸せかどうかは本人次第 |