近視矯正手術LASIK(レーシック)体験記

(バックナンバー・1998年12月まで)


1998年11月27日 運命を決めた日 左0.03 右0.03 両眼視力不明

RV=0.03(1.2×s-8.5D)
LV=0.03(1.2×s-7.5D c-0.75 A180)

 朝,いつになく早く目が覚めた。大学の授業時間割を見ると,1時限目が眼科学で内容は「水晶体の生理と病理」となっていた。眼科の授業は4回目で,それまでの3回はすべて欠席していたのだが,「水晶体」という内容に惹かれたこともあって「一丁出席してみようか」と,大学に向かった。これが運命の始まりであった。

 用意周到に構成され,流れるように進む授業。好奇心を引き付けるその内容は,いつしか白内障手術の話へと発展し,眼内レンズの話題を経て最後には視力矯正手術に及んだ。授業にのめり込んでいく自分を感じる。5~6年前に視力矯正手術を真剣に考えたことがあった私は,授業が終了すると同時に先生のもとへ行き,手術を受けたい旨を伝えた。先生からすると,あまりに性急にコトを決める学生一人あり,と映ったことであろう。当人としては積年の思いをようやくにして晴らしたようなものだったのだが。

 ことは急展開に進む。偶然にも当日午後は授業がなかったため,早速予備検査を受診することとし,病院に予約を入れる。2時限目の授業は上の空,午後になると足早に武蔵境へと向かった。

 予備検査。いくつかの検査を受けたが,ヘビーだったのは筋肉弛緩剤の目薬をさした後だった。瞳孔を絞る筋肉と,ピント調節をするための筋肉をゆるめるための目薬だったが,さされて15分ほどすると突如体中の力がするすると抜けていき,息苦しさすら感じる。目の奥の写真を撮ると言いながら眼に当てる光がとんでもなく眩しい。

 検査を終えて手術日を予約する。12月11日と12月18日を提示され,重要な試験のちょうど翌日となる12月18日を指定した。検査結果に異常がなければ3週間後には早くも手術となる。

 帰り道,枕元の照明器具を買おうとヨドバシカメラに寄った。しかし筋肉弛緩剤が効いているため,展示されている照明器具の明かりが目に眩しく,正視していられない。ほうほうの体で急ぎ帰途についた。


1998年12月17日 手術前日

 手術前日。夕方まで試験があり,手術のことを考えるどころではないのだが,指示に従って化膿止めの目薬(サルペリン=βラクタム系)をきちんと6回さす。また水分を控えろという案内書にしたがって,日に4杯くらい飲むはずのコーヒーを朝の1杯にとどめる。案内書には「睡眠を良くとるよう心がけよ」と書いてあったが,試験のさなかで昼夜逆転していたため,何と寝付いたのは朝6時であった。手術に対する心配などは全くなかった。

薬剤
点眼薬…サルペリン1日6回


1998年12月18日 手術日 手術1時間後,左右各0.1

 手術当日。午前11時30分の予約時間に訪れると,目薬(内容不明)をさされてすぐにフリータイム。「お茶でも飲んできて下さい」との言葉に,「水分は控えるんじゃないんですか?」との質問には「別にダイジョウブです」と言うではないか。手術という緊張感が全然ない。とは言え昼食後に飲まされた錠剤は,精神安定剤だったようだ。患者にとって痛みよりも心配が先行する手術だからこれもやむを得ずか。麻酔は目薬だけであり,注射などはしない。

 手術だからといって服を脱がされたりはせず,ただ薄手の青い防菌ガウン(?)をはおるだけ。手術台はさながら歯医者の椅子のよう。椅子の横に機器が設置されていてそれが顔の上に来るあたりも,歯医者と大差ない。手術中の説明としては,「赤い点滅を見ていて下さい」ということだけであった。

 手術もまた,その深刻度は別として医者の先生の動きとしては歯医者と通じるものがあった。まず左眼の手術。目の周囲に防護膜を張られる。眼が閉じないように金物のクリップを眼と瞼の間に入れられる。眼の上をブラシと液体で掃除される。眼の上にまるい印をつけられる。眼の上にまるい穴の空いた機械が迫ってきて,眼を吸い付ける。これは眼の上の膜(角膜という)を視力検査の輪のような切れ込みで一端だけつなげたままにして,まるいふたのようにペロッと剥ぐためのカンナのようなものである。そのカンナは一瞬のうちに眼の上を一往復する。これで角膜の表面がぺろりと剥げるはずだ。先生は先端が音叉のように二又になった金物の棒でそのふたをめくり返す。すばらしい(?)ことに,これらの作業が,カンナの往復を除いてすべてありありと見えるのである。カンナの往復は見えなかったように思う。

 そうしてレーザー照射に入る。角膜の皮を一皮剥いだその下の層を,レーザーで焼いて薄くするのがこの手術の中心部分である。眼の上をブラシで掃除される。「照射80秒です」という声がする。ここが勝負だと私は考えた。照射中に目が動いて一皮剥けていない角膜表面にレーザーが当たると,手術の後でかなり痛むはずである。レーシックの一世代前のPRKという手術では角膜の表面にレーザーを当てるのだが,それだと手術の後でかなり痛むと聞いている。尤も一瞬ずれたところに当たったからといって簡単に失敗するような手術ではないらしいので,その点での心配はしていなかった。

 レーザー照射開始。緊張で血の気が引いて行く。絶対に眼を動かすまいと思うが,ピントをどこに調整していいかつかめないため,無意識に動いてしまっているように感じる。しかしその横で「上手だな~,全然動かない」という先生の独り言がもれるので,多少安心する。レーザーは照射し続けられる。眼の上で上がっていく湯気。点滅する赤い光。「5・4・3・2・1…」

 レーザー照射が終わる。再びブラシでぬぐわれる左眼。「音叉」状の金具で,剥いであった「ふた」を再びかぶせられ,保護用のコンタクトレンズをつけられる。これで手術終了。時間にして10分ほどだったろうか。

 椅子が回転させられ,同様にして右眼も手術された。

 手術終了後は世界が白んで見える。明らかにピントの位置が遠くにずれたことがわかる。手術1時間後の視力測定は左右とも0.1程度。まだ角膜の表面の下が荒れているせいだろうか,全体がざらついて見えるのがもどかしい。感じとしては「すりガラスを挟んでいる感じ」。視力測定中に右眼の保護コンタクトがぽろりと外れるが,再びは入れずに裸眼のままとされる。

 手術中に目を動かさなかったことが功を奏したのか,手術後も全く痛みがない。右眼にはハードコンタクトを入れたような異物感があったが,左眼はそれこそ「痛くもかゆくもない」。生来皮膚感覚が鋭敏で,ソフトコンタクトにすら異物感を感じていた自分としてはちょっと驚きであった。横では先立って手術を受けたおじさんが「痛い」といって眼を覆っている。手術中に目を動かして,表面を焼いたのだろうかと勝手に想像する。

 手術2時間後ほどたった午後5時,ゴーグル様の保護メガネをかけたまま治療終了。それまでのメガネはカバンの中。外に出ると見えるもの全てが大きく見える。込み上げてくる嬉しさを隠そうとするが,どうしても頬が緩んでしまうのを感じる。

 夕食を摂りながらテレビを眺める。時間と共に良く見えるようになっていくのがわかる。手術直後の「白み」はいつしか消えていた。

薬剤
点眼薬…タリビット,フルメトロン,サルペリン(継続) 各1日4回
錠剤…フロモックス100 3食後
カプセル…ウルグート200 3食後


1998年12月19日 検診日 左右各0.6,両眼0.8

 早朝に診察のため病院に向かう。右眼の異物感は少し残っている。しかし傷はかなり奇麗に回復しているとのことだ。視力は左右各0.6,両眼で0.8でこれもまずまずのようだ。診察の時に左眼の保護コンタクトもはずされた。

 午後は小用のため四谷に向かう。四谷から文京区のアパートに戻る途中あたりからか,右眼の異物感が取れるのと引き換えに,左眼に鈍い痛みを感じはじめ,やや焦る。見え方も右眼より左眼のほうがぼやけている。コンタクトをはずしたので傷が開いたのだろうか,などと勝手なことを考える。夜になって思いたって眼帯を買おうと外に出て,コンビニ巡りをする。しかしマスクは売っているものの眼帯はどこにもない。30分以上さまよったあげく,マスクを細工して眼帯にしようと決意してマスクとガーゼを買うが,ふと気づくと目の痛みはほとんど消えていた。結局マスクは来年の花粉症の季節までお蔵入りとなった。


1998年12月20日

 前日の左眼の痛みはすっかり消えている。翌日の試験のために友人宅で行う勉強会に向かうため外に出ると,前日にも増して世界が良く見えることを実感する。友人宅では勉強もせずにサッカー(横浜フリューゲルス対ヴァンフォーレ甲府)を観ながら大声を上げる私をみて,友人は笑っている。テレビを見るには支障はない。しかし勉強に入る前に友人のコンピューターの設定をしたが,細かい字を近くで見るのには慣れ切っていない。これは本を見ることについても同様である。

 洗髪は1週間は控える,但し美容院での仰向けシャンプーは翌日から構わないとのことだったので,水泳用のゴーグルをつけ,シャワーの下で頭をそらして洗髪することにした。ゴーグルに慣れていない人はやるべきではないと思う。


1998年12月21日

 洗顔も1週間控えることになっていたので,フェイシャルペーパーというのを買って顔を拭く。眼のほうは全く問題はないが,意識するせいかまだ完全には落ち着いていない感じを持つ。

 試験を受けるために大学に行くと,手術を受けることを知っていた友人・知らなかった友人の多くが微笑んでいる。「男前になった」とか「若返った」とか「岩城晃一になった」とか口々に勝手なことを言われるが,まあ悪い気分ではない。というか気分がいい。


1998年12月22日 検診日 右1.0弱,左0.9,両眼1.0

 午前中に検査に行く。視力は右1.0弱,左0.9,両眼1.0。もともと片眼0.8,両眼1.0を目標にしたつもりだったので,その点では目標は達成である。しかし検査の結果左眼には,手術でめくった角膜表面の下に濁りが少し残っているということで,実際右に比べて左では見え方が多少ぼやけている。この濁りはいずれ消えるそうなので心配はしていないし,これが消えれば視力ももう少し良く出るとのことだ。それよりも今の時点で面倒なことは,手元の見え方に多少の難がある点である。本などを読む時にどうやっても字がボワッとした見え方なので,勉強も多少億劫になる。尤もこれも遅くとも1ヶ月ほどで解消されるそうなので,今だけの辛抱と悟る。あと,昨日も書いたが,意識するせいかソフトコンタクトが入っているような感覚が残っている。

薬剤
点眼薬のみすべて継続,そのうちサルペリンは12月24日まで。


1998年12月23日

 そもそも私が初めて近視矯正手術を受けようと思ったのは5~6年前のことであった。群馬県桐生市に当時日本では近視矯正手術では有名な先生がいるということで,1日がかりで検査に行った。眼に関する検査を一通り受けると時は既に夕方であった。しかるにその当時その病院でやっていたRKという術式は,軽い近視しか矯正できないものであり,私のような片眼0.03という強度近視では,片眼0.1~0.2くらいまでしか矯正できないだろうということだったので諦めたという経緯がある。今にして思えばその時RK手術を受けなかったのは幸いであった。それを受けていたら中途半端に矯正されていて相変わらずメガネ生活で,しかも改めてレーシックを受けることは出来なかったかも知れない。

 その桐生の病院の玄関先に記念植樹の碑が置かれていた。「朝鮮民主主義人民共和国」の医師団の見学を記念する旨が書かれていたのを見て喜んだことを思い出す。

 誤解があると困るので,私は韓国や(北)朝鮮の関係者ではないということを明言しておこう。


1998年12月24日

 今日から仕事先の予備校の冬期講習で,一日フル回転がはじまった。朝9時から夜9時半までの仕事で,眼のことばかり気にしているわけにもいかない。眼鏡のない素顔の評判は悪くないが,授業中に手術の話をすると皆一様に引いてしまうのが面白い。「眼を切る」といっただけでも怯える生徒がかなりいる。私の場合,大学の人体解剖実習で,爪の観察のために爪を剥ぐ必要があったのだが(もちろん御遺体の),周りの学生が嫌がる中で私は何ともなかったのだから,元々の素質の差もあるのかも知れない。私にとってはそれよりも,東京都心で夏にゴキブリが道を歩いていることの方がよっぽど背筋が寒くなる。

 肝腎の眼の調子についてだが,手元が見にくいのは相変わらずのことであり,特に変化はない。手術前からのことだが,涙の量がやや少ないので,乾燥した日は多少気になることもある。但し今日は,クリスマスイブだというのに仕事で遊べない上,相手もいない悲しさで涙が止まらないから大丈夫だ。


1998年12月26日

 今日予備校の授業中にレーシックの話をしたら,ある女生徒が「恐い」といって泣き顔になったので焦った。


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